勝手にラジオ局を開局!ソ連時代に流行っていたラジオ・フーリガン

ソビエト時代のラジオについての記事を紹介します。

ラジオと言っても聞いていた思い出ではなく、勝手にラジオ局を作っていたという話です。

ソビエト時代には割りとポピュラーな遊びだったようで、私もやっていた!と言うコメントが沢山ついていました。

 

それでは以下翻訳です。

 

 

ソ連のラジオフーリガン

Советские «радиохулиганы»

 

 

20世紀の70年代にラジオがとても流行っていた。また、ソ連の許された音楽、禁止されている音楽、外国の音楽もとても人気があった。外国の音楽は殆ど全部禁止されていた。ソ連と違うイデオロギーをプロパガンダをしているとされていたから。

許されていて人気のあるバンド、例えば「samotsvety」「pesnyary」、歌手のRotaruなどのレコードでも店に行って買うというわけにいかなかった。なかなか売っていない珍しいものだった。知り合いのつながりを使ったりして密かに買っていた。ラジカセもあまり売っていなくて高かった。少なくとも田舎の方ではそういう現状だった。
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ラジオ好きが自分でラジオを組み立てていた。中波で動いていた。ラジオを作ったら許可なしに生放送を始めてた。普通は友達、もっとよくあったのは好きな女の子に捧げるものだった。彼女の名前を生放送で言っていたわけで、彼女の感情は想像に難くない。自分の名前がラジオから流れている。自分のために放送しているんだと分かっていた。

また、そういう勝手な放送は当時の外国の人気音楽を聴く唯一なチャンスだったと言ってもいい。

ラジオの機械自体はランプのものと、トランジスターのものが使われていた。自分で作ったラジオは小さい町とその周辺まで電波が届いていた。音質はそこまで高くなかったけど当時にしては悪くなかった。

 

おそらく自家製ラジオの機能はFMで放送するのに物足りなかったのでしょう。

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もちろん、ちゃんと許可をとって公式的なラジオクラブもあった。彼らの放送の周波数は決まっていてコールサインも登録されていた。大体これらはFMで放送していた。ラジオクラブはスポーツの競争のようなものであって、世界中の人とどれだけつながることができるかと。相手が遠ければ遠いほどいいとされていた。あとでお互いを聞けたよという確認の手紙が届いたりした。だからこういう活動では音楽を流すことはなかった。

 

違法に放送していた人はラジオフーリガンと呼ばれていた。特別な警察もいて、ラジオの居場所を見つけて放送をやめさせていた。大きな町に常設の方位測定の所と、車に乗って探している方位測定の所があった。小さな町には車のほうだけで充分だった。見つかったらラジオ関係のものは全部没収されていた。

罰があったかどうか分からない。なにかの偵察勤務などの雑音の理由になっていたかもしれないが、それよりコントロールされていない放送を政府が怖がっていたかも。それに汚い言葉を使う人もいた。

 

 

 

alex
働いて稼いではじめてラジオを買ったら、まずそういうクラブを探した。

 中波で放送していた。

 うちのマンションに自家製ラジオを持っている子もいて、

 夜にみんなで集まってビートルズを聴いていた。


その子は捕まるのが怖くて30分で終わっちゃってたけど。

 放送は悪口もあれば、好きな女の子に捧げる!というのもあって、

 禁止されていた音楽も流れた。

 罰として持っている家電、冷蔵庫まで、取られると言われてた。

 

 


Николай
方位測定の警察はいたかもしれないけどどこにでもあったというわけではない。

 フーリガンが捕まるのは、人気が高くなってたから。

 1回目は30~50ルーブルの罰金を取られていた。

 また捕まったら6ヶ月間刑務所。

 偵察勤務の邪魔なんてとんでもない。

 放送周波帯を使っていなかった。

 もし使っていたらだれでも聴けるということになってしますから。

 

 


Юрий

 フーリガンがバレていたのはアンテナで。

 機械を取られていたがもっと厳しい罰などはなかった。

 軍隊に行ったらその能力が役だった。

АНДРЕЙ
僕も78年からフーリガンをしていた。

 楽しかったなあ。

 ラジオを持って友達と散策しながらテープが終わるまで録音していた。

 もう少ししたらかなり強い機械を作って殆ど全国に放送できた。

 機械はTPS57でとてもいいものだ。

 今でも動いている。

 オレンブルグの人に、現地のラジオ放送の邪魔したって言われたとき、とても誇りに思った。

 今は機械もあるし、経験も豊富だがあまりやりたくない。年ですね。

 

 


Владимир из Балаково

思い出すと涙が出るね。素晴らしい時だった。

 音楽に対して要求が強かった。

 ペレストロイカのあとは次第になくなっていった。

 機械はP-311で、とてもいいもので、申し分なく動いている。

 ニジネヴァルトフスク、ペテルブルグ、キロヴァカン、

 チラスポリ、チルノポリまで放送できた。

 放送の邪魔の話は嘘。

 僕は空港でラジオ関係の仕事をしていたが、邪魔されるとかいうことなかった。

 多分政府はコントロールできない放送を恐れていただけであろう。

 

 

Владимир
ラジオフーリガンのコミュニティに是非参加してください!

 今の所参加者は783人ですよ!

 

 


КОЛЯН

 TalkForceにつないでみて。

 ラジオ好きがそこにたくさんいるよ。

 

 


вика цыганова

 私は1970年から今まで放送しているよ。

 公式的に認められたときもあった。

 

 


Евгений

 ラジオ好きの皆さんこんにちは!

 僕はシベリアに住んでいる。

 放送に出るのは70年代からだった。

 何回も捕まったことある。

 その遠い時代を思い出すのが楽しい!

 今でも中波でやっていますよ。

 ラジオネームは302KCB6263

 

 


Чекмст

 思い出すのが楽しい。

 1979~81年にラジオフーリガンをしていた。

 捕まったこともある。

 ちょうどVysotskijのコンサートを放送しているところ捕まってしまった。

 僕は当時トランジスターを使っていて、警察がびっくりしていた。

 トランジスターを使っているフーリガンは始めてって。

 アンテナでバレちゃった。

 自分のマンションの屋根と隣の屋根にアンテナをつけていた。

 

 


миша

 私もラジオを作ってみたいが、問題は機械。

 Alpinist407をどうやって変えればフーリガン放送できるんですか。

 誰か図でも持っていませんか。

 

 


Сергей

 皆さんこんにちは!

 あの黄金の時が戻ってこないのが非常に残念。

 今の放送は全然違うね。

 素敵な思い出どうもありがとう!

 

 


корж петр 65лет

 記事ありがとう。

 読んでいたら涙がでた。

 チェルカッスク州に住んでいた。

 69~80年に放送もしていた。

 3回捕まって全部取られていた。

 今は聞いているだけ。

 いい時代だったなあ。

 

 

 

 

 

 

Советские «радиохулиганы»

20th.su/2010/03/05/sovetskie-radioxuligany/