ブレジネフがソ連国民のためにしたこと

1977から死去する1982年の間、ソ連の最高指導者だったブレジネフ。
彼がソ連国民のために行った政策をまとめた記事を紹介します。
 
以下翻訳です。

ブレジネフがソ連国民のためにしたこと

Что сделал Брежнев для советского народа
 
 
もう二度とブレジネフ風に暮らすことはない。
部屋とダーチャを並んでもらえること、国民の車などなど、あの時代に残ってしまった。
さあ、ブレジネフがソ連国民のためにやったことを思い出しましょう。
01


 
利益と赤字
 
70年代のソ連では何でも生産していた。
ラケットから下着まで。
商品はあまりきれいじゃなかったり服もおしゃれじゃなかったりしたかも知れないが国産のものだった。
 
1980年に産業と農業の生産量はヨーロッパで1位、世界で2位(1位はアメリカ)だった。
例えば世界で一番たくさんのコンクリートを作っていた。
ソ連製の農業機械は完璧じゃなかったかもしれないけど世界40カ国で使われていた。
だから、「ブレジネフ時代は食べるものがなくて体を温めることもできなかった。」などと言う批判は根拠がない。
 
店から何が消えてしまうか予想がつかなかったのは本当。
不足とコネや賄賂は日常だった。
田舎ではソーセージとかそばを買うのは難しかった。
まあ、モスクワに行けば買えたけど。
モスクワに行ってきて持ってきたソーセージ、グリーンピース、Pautinkaというケーキをお正月の食卓に盛るととても豪華だった!
02
 
 
 
自分の家
 
ブレジネフ時代は国民の給料が1.5倍増えた。
人々はゆっくりとした人生を楽しんでいて快適な暮らしに慣れてきた。
人口が1200万人増えた。
1億6200万人が部屋をもらえた。
しかも部屋代は家族収入の3%くらいだったのでますます暮らしやすくなった。
あなたも今度、ダーチャでシャシリク(※ロシア風BBQ)をやるときにブレジネフにありがとうと言っておいて。
もしかしてそのダーチャは両親がブレジネフ時代にもらったものである可能性が高い。
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自分の車
 
1970年にヴォルジスキー車工場でジグリという車を作り始めた。
翌年の終わり頃には1日735台の車を作っていた。
VAZ2101(コペイカと呼ばれていた)は知り合いとかを使って手に入れるのは可能だった。
もしくは並んで買うのも出来た。(※順番待ちのこと)
並んでから買うまでに数年間待たなければいけなかったが、ようやくその日が来るととても嬉しい!
もちろん貯金もしなければいけなかったが、頑張ればできる。
少なくとも自分の車は豪華なものではなくなり、「叶わない夢」ではなくなった。
04
 
ミサイル防衛
 
1972年5月26日、ブレジネフとニクソンは第一次戦略兵器制限交渉を結び、ミサイル作りが制限された。
長年、戦争が来ないかなと恐れてきたが、ブレジネフ時代は割と平和だった。
05
 
公共時代
 
週5日の仕事と2日間の休みもブレジネフのおかげである。
3週間有給休暇もこの時代からはじまった。
ちなみにアメリカではいまだない。
それに、無料か割引付のサナトリウム、サマーキャンプ、失業者の少なさ、無料の大学と病院も加えればソ連の暮らしは天国のようだった。
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オリンピック
 
1980年のオリンピックは多くの人の記憶に残った。
ソ連の選手はメダル197枚、そのうち80枚の金メダルを獲得した。
もし、アメリカなどがボイコットしなければその数は変わったかも知れないが。
そして全てがとてもよく準備され行われたオリンピくだった。
ロシア人はどんな状況でも盛り上げることができるということの証拠である。
ソチのオリンピックもうまく行ったと思う。
07
 
 
 
創作ブーム
 
ブレジネフの政府が行っていた反体制派との戦いを「ビロード弾圧」と呼んでいる。
1968年にサハロフが、「資本主義と社会主義が近つきつつある。」と言っても首になっただけ。
同じことをスターリン時代に言ったら恐ろしい結果になったでしょう。
 
ブレジネフ時代に国民の心の中にあった恐怖感が消えていった。
レーニンをテーマにした無限の作品などプロパガンダが酷かったが、一方、喋っても刑務所にいれられるおそれのないアネクドートが多発した。
 
ブレジネフ時代にはワシーリー・マカロヴィッチ・シュクシン、チンギス・アイトマートフ、ストルガツキー兄弟などのもっとも優れた作品もこの時代に作られた。
 
また、ガイダイ、リャザノフ、ダネリヤ、タルコフスキーの、「作戦コード<ウィー>とシューリクのその他の冒険」、「コーカサスの女虜、もしくはシューリクの新しい冒険 」、「車に気をつけて」、「砂漠の白い太陽」、「紳士諸君に幸あれ」、「春の十七の瞬間」、「あのミュンヒハウゼン男爵」「ミミノ」などの素晴らしい傑作もこの時代に作られた。
 
ロシアのお正月がこれ抜きには考えられないという、「運命の皮肉、あるいはいい湯を」もこの時代の作品だ。
08
 
 
 
 
 
tonklin
 また、ブレジネフはこいつを見逃してしまった。
09

俺は国を滅ぼした。あなたは母国のためになにをした?

 
 
 
 
Gustaf
 ブレジネフが死んだってラジオで放送されたら、女の子たちが授業中泣いていた。
 
 
 


Простой
 >Gustaf
  おれも覚えている。
  寮の管理人が号泣していた。
  我々2年生も、これからどうなるんだろうちょっと戸惑った。
11

どう?ソーセージ足りている?

 
 
 
Molokanov
 ああ、なんて懐かしい、戻りたい!
 ごめんなさい、批判しないで。
 僕はソ連で生まれた。未だ覚えている。
 ソ連は僕の母国だ!
 
 
 
Metall64
 ブレジネフはバイカル・アムール鉄道を作ったが、
 ゴルバチョフとエリツィンはそれを滅ぼした。
10
 
 
 
RusBaton
 ブレジネフに感謝している。
 いいリーダーだった。
 正しいリーダー。
 
 
 
Конецсветы
 ブレジネフは自分で生きていて他の人にも生きる余裕を与えてくれた。
 
 
 
Dudnik
 いい人だった!
 彼の時代に、
 「自分で生きていて我々にも生きる余裕を与えてくれる」
 と言ってた。
 
 
 
KEN12
 彼の葬式も、人の暮らしも覚えている。
 
 
 
nap21
 彼の時代はすべて国民のためだった。
 今は物価高いのに給料少なすぎる。
 
 
 
EmilyPrentis
 ペレストロイカの禁酒法のとき人々は、
 「ブレジネフは自分でも飲んでいて我々も自由に飲めた」
 って残念がってため息ついていた
 
 
 
ivanivany4
 そうだな。
 俺はオムスクに住んでいる。
 グリーンピース買いにモスクワに行ってくるなんてかんたん!
 
 
 
 
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