ソビエト時代できたこと、今はできなくなってしまったことをロシア人が語っている記事を紹介します。
読んでいると「ソビエトだったから」というよりも、「昔だったから」じゃないかなと思いました。私が子供のころも友達呼ぶのに家の前で叫んでたし、公園の水道で水も平気で飲んでいたし・・・。どこの国でも「昔はよかった」となるんだなと個人的には思います。
それでは以下翻訳です。
我々はソ連の人間だ。あの時も今も。
Мы советские, тогда и теперь
我々がどう変わったか考えたことはありますか?時代が変わって、ソ連で生まれ育った我々も変わってしまった。
より重商主義になったというか、お金が基準となった。お金がなきゃダメだって言われても、言い訳にならないと思う。ソ連時代もお金は大事だったが、お金よりも友情、助け合い、愛情が大事だった!
インテリアから趣味まで、いろいろな分野で変化が起こったわけである。今はどうなっているのか皆さんもご存知の通り。昔はどんな感じだったか思い出してみよう!
私は今から始めるが、皆さんもコメントでつけ加えて下さい。
ソ連時代は2重ドアや防犯アラームがなかった。(あくまでも私の個人的な思い出に基づく)
当時、5階に住んでいる友達の部屋の窓の下に立ち、みんなで「オーリャ!オーリャ!」と叫んで友達を呼んでも隣の人に何か投げられるおそれなんてなかった。
暗くなってから外で遊ぶのは怖くなかった。両親も気にしなかった。逆に我々が暗くなるのを待っていた。暗いほうがかくれんぼ等をするためには楽しかった。
少しいたずらもした。例えば、夜に1階の窓を叩くとか。それでも最悪の場合、「いたずらっこっ達め!」と言われるだけだった。.
炭酸水を共用グラスから平気に飲んでいた。病気が感染ることなど考えてもいなかった。また、道端に水道があって、遊んで疲れたらその水をそのまま飲んでいた。(※訳者注:今は水道水を直接飲めない。)
友達のところへ行ったときはどうだろう?ごちそうはそんなにすごくなかったけど、心から楽しんでいた。みんなでテーブルで歌ってた歌を覚えている。
だれかが死んだら皆で送りに行ってた。結婚式も皆で祝ってた。特に田舎では村全体で祝ってた。
でも一番大事なのは、我々が憤ったりしなかった。社会主義のスローガンを覚えている?「人間は人間にとっての友であり、仲間であり兄弟である。」明るい未来を信じていたのか、安定に影響されたのか。だって学校を卒業したら大学に必ず入るとみんな知っていた。どこに入るかだけ決めておけばよかった。授業料はもちろん無料。そして大学を卒業したら仕事につく。3年間若手として働けば、そのあとは好きな所に移って働けばよかった。
もう一つ。学校にはいじめがなかった。皆平等だった。クラスメイトが300ルーブルで親に本物のジンズを買ってもらったときも羨ましくなかった。彼女の親がちゃんと10年間働いて稼いだお金だってみんな知っていた。
熱心さは覚えている?例えば、スボートニク。そのあとの街がピカピカになっていた。だれも怠けたりサボったりしなかった。楽しく一生懸命に掃除をしていた。
スボートニク:Wikipediaより。
(ロシア語:суббо́тникスボートニク) とはソビエト連邦で始められた土曜日に行われる勤労奉仕日である。 ロシア語で土曜日を意味するスボータ (суббо́та) から名付けられた。 日本語では土曜労働と書かれる場合もある。 類似の言葉に日曜日に行われたヴォスクレースニク(воскре́сникヴァスクリェースニク)があり、これもロシア語で日曜日を意味するヴォスクレセーニエ(воскресе́нье)から来ている。
いくらでも思い出せる・・
今は商品不足もなく、国境も簡単に通れるし、インターネットを使って世界とつながり、携帯電話のお陰でいつでも連絡がとれる。なのにあのころの嬉しさと確信が我々の目には映らない。歳をとったことだけ原因なのでしょうか。
Quadra_T
ファンタジーのように読んた。
私は87年生まれだからあまり覚えていない。
90年台はもうすっかり変わった。
一つだけ質問がある。
本当に書いてある通りだったの?
Сэлдом
そうですね。
あなたはソ連でほとんど暮らしていないけど、本当にその通りだったよ。
Илья
僕は81年生まれだけど、確かに書いてあるとおりだった。
Любовь
そう、そうだった!
私は1963年生まれで、1970年に小学校に入った。
だからそのときをよく覚えている。
Совок
確かに全てがお金基準になっているね。
人が「何かになる」ではなく「何かを持つ」ことを目指している。
できるだけたくさんの物を。
著者の描いた人間関係は親戚の間しか残っていない。
でもその関係もこれから壊されていく。
「何をなすべきか」という問がまた出てくる。
Надежда
1961年生まれ。
本当にそうだった。
家の鍵を入り口のカーペットの下に入れたり、
街中の井戸を誰が自分の前に使ってたか考えずに使ってた。
人々もお互い兄弟のようだった。
Светлана Бобровская
今は親戚の間の関係でも崩れていく。
記事に書いてあることは事実だ。
ソ連の栄の時代をよく覚えている。
子供であった私達が共産主義の国で暮らすと喜んでいて信じていたのも覚えている。
なぜ?計画の話ばかりしていて実現しないってことはなかった。
宇宙へ飛ぶなどちゃんと実現していた。
1961年4月12日を今のように覚えている。
ガガーリンは生きていれば今年77歳になった。生きていなくてよかった。
彼が誇りとなった国はこんな風に変わってしまったって彼が知らなくてよかった。
илья
66年生まれ。子供の頃、青春が懐かしい。
でも、思い出してごらん。
公衆トイレ、電車、バス・・・
禁止されていた本、音楽、映画・・・
肉の代わりに骨。スーパーに何もなかった。
どうにも変えられなかったし変えたくもなかった。
国から出られなかったことも思い出して。
「今」の話しはしない。「だって今は・・」というのが論拠にはならない。
Василий
そう、その通りだった。
90年代もまだあったけど、少しずつ変わっていって、
2000年に逆さまになったかのようにがらっと変わってしまった。
vikusha
私は1975年生まれだが、その平穏な暮らしまだ覚えている。
両親とよくその話しているが、両親も「安定」があったと言っている。
豪華に暮らしたわけじゃないけど毎年父のもらうプチョーフカ(旅行証明書)で海へ行ったり、
キャンプへ行ったりして、新しい家具なども買えたし。
給料日が15日だったら確実に15日にお金を貰えるって知っていた。
国境が開いて今はどこも行けるけど・・・
そのために我々がどれだけ賭したか。
Оцелот
80年代の半ば頃モスクワの外れで育った。
書いてある通りの素晴らしさはなかったよ。
そのころすでにお金によってセレブ界が限定されていた。
違う街に住んでいるからとか違うチームの応援しているから殴られることもあったよ。
学校で欧米を批判してた人が放課後、外国の服を自慢していたり。
仲間とだけ仲良くしていて同じクラスの人でも仲間が違っていたら無視してた。
Антоха
書いてある通りだ。隣の人の家に平気で入ってた。
誰もいなくても鍵がかかっていなかった。
俺は79年に卒業したが、80年代の前半がよかった。
そして悪いことが起こりそうな雰囲気になった。
国が突き落とされそうになっていた。
Валерий
80年代の半ばってソ連ではなくゴルバチョフだ。
афроукраинец
ゴルバチョフだってまだソ連じゃん。
Совок
日常生活で問題があったけど、全体的に今より暮らし心地がよかった。
Сергей
ただ今と違う感じでマインドコントロールされていただけ。
そのときそういう暮らし方を国が求めていた。
今は違うようにに暮らしているけど、それはそれで正常。
昔よかったか今が良
いか、議論は無意味だ。
その時代その時代が良いこともあれば悪いこともある。
Артем
>Сергей
過去と現在とどう違うかわかる?
昔は偉大で安定した国で暮らしていて誇りに思ってた。
今は愚かなロシアで暮らし、安楽な日常を保つために天然資源を無駄に使っているだけだ。
Мы советские, тогда и теперь
20th.su/2011/04/07/my-sovetskie-togda-i-teper/