ソ連時代のリアルな生活写真

ソビエト時代のリアルな生活の様子を写した写真を紹介します。

この写真を撮影した写真家グループは、リアルな生活を移しすぎたため、当時のKGBにマークされ、グループは解散させられたそうです。

 

では、そのリアルなソ連を見て行きましょう。

以下翻訳です。

写真家がクビになった理由とその写真。ソ連において禁止だったドキュメンタリー写真。

Фотографии, за которые авторов уволили с работы

Запрещенная в СССР документальная фотография.

 

 

TRIVAというグループに3人の写真家がいた。

Vladimir Vorobyov、Vladimir Sokolaev、Aleksandr Trofimov。彼らは70年代の終り~80年代の始め頃クズネツク工場でカメラマンとして務めていた。しかし、工場の写真はとても少ない。

ある日、ソ連生活の批判ということで彼らはクビになりフリーのカメラマンになった。写真の一部を消さざるを得なかった。


「カメラを持って町に出ていた。目的なく散策していた。自由な狩りという感じ。そういう感じで出かけるとたくさんの写真を撮れた。」とSokolaev氏は述べている。
今まで発表されたことのない写真を見ていこう。

01
「コークス工場で雪」

KMKコークス工場 1979年11月27日

 

 

02

「鉱山でマースレーニッツァ祭り」

ノヴォクズネツク 1984年

 

 

03
「Metalurgスタジアムで氷作り」

ノヴォクズネツク 1984年2月11日

このグループの参加者は工場の外でも常にカメラを持ち歩いていたので、写真の大半は街中の日常場面の写真である。彼らのやりかたは、写真をレタッチしたりしないこと。また、シーンを作ったりは絶対にしなかった。

写真に写された場面は全て本当に起こったことで、カメラの前でどのようなポーズを取ればいいかなど何も言わない。

 

 

 

04
「出生届」

中央登録所 1983年10月1日

 

 

05
「Gorpromtorgの体操」

ノヴォクズネツク  No.62学校 1983年4月10日

 

 


このやり方は当時とても珍しかった。公式的な写真はいつも作られた場面であった。
有名な歴史的な写真でも実は演じられていたものだった。

 

例:
http://ru.blitzkrieg.com/forum/attachment.php?attachmentid=4269&d=1398843847

17

 


ソ連時代の新聞の写真の90%が映画のように作られていた。道具から全て揃えたものだ。

例えば、優れたトラクター運転手の写真を撮らなければいけないとしたら、服を着替えさせてトラクターのそばに立たせる。しかもトラクターは実際使っているものではなく、新しいもの。カメラマンが求められたのは事実ではなく、イデオロギーにそったリアリティー。


事実そのまま撮れるようになったのは、日本のキャノンとドイツのライカを持っていたおかげである。ゼニトなどのソ連製のカメラではこのような写真は撮れなかった。キャノンを使えたことが彼らの活動にとってとても重要だった。とSokolaev氏が述べている。

 

 

 

06
「コークス工場の技師」

KMK工場 1980年

 


この写真はシュール。一見わざと設定されたシーンのように思えるが、実はそうではない。この技師は時計の修理にきたが、コークス工場では人間が酔ってしまうガスがところどころ出ている。この技師は新鮮な空気を吸いに外に出て休んでいるのだ。

 

 

 

07
「チキンの死体炙り」

 


事実をそのまま伝えるという考え方が原因でグループは解散させられた。

1981年に公式的に登録して、19の展覧会(外国も含む)に参加したが、1982年にKGBが写を使ったソ連批判の疑いを持ち始めた。

 

 

08

「紳士が訪れる」

ノヴォクズネツク 1980年

 

 


彼らは華やかさを追求しなかった。多くのカメラマンはどうすれば見ている人に印象あたえるかをよく分かっているので写真を撮ることをサーカスにしてしまう。

Trivaの場合は違う。シンプルな話をシンプルに語る。だが、そのシンプルさの奥に深さと清さがあり、それを表現するために長年の勉強が必要だった。

 

 

09

「通り過ぎる幸せ」

ノヴォクズネツク 1983年5月1日

 


この写真は傑作である。なぜかというと、目をひこうとしないで人生について語るからだ。

例えば、「通り過ぎる幸せ」はデモにおける普通の事が箴言となる。そして技術的にその箴言がはっきりと伝わって、余計なものはない。

 

 

10

«Коридор роддома. Кефир после родов»

「子供産む病院の廊下。出産のあとのケフィア」

ノヴォクズネツク第一臨床産院  1981年6月29日

 

 

 

11

「本屋。古本売り場」

ノヴォクズネツク キロヴァ通り 1983年1月21日

 


芸術的に価値がある一方で、これらの写真は日付が必ずついているので、ドキュメンタリーとしてもとても重要。

「我々にとって街中写真というのは唯一可能な写真の撮り方である。実際、町の歴史の記録をしていたと言っても良い。他の方法がなかった。どこも誘われたりしなかったから。誘われなかったが、町の歴史、町の今日を記録したかったわけである。」とSokolaev氏が述べる。

 

 

12

«Венок для собаки».


犬のための花冠


子どもたちが学校に来たら犬がいて、犬に花をあげることにしました。
彼らの写真には、「子供の頃iPhoneはなかったが、深い水たまり、砂場、スコップのあった幸せな子供のころであった。」とSNSの人みんながみんな懐かしむようなところがある。

 

 

13

«Игры в «резинку»


ゴムの遊び。トリヤッチ


もしあなたはその時代を少しでも生きていたのなら、これらの写真のおかげで「深い水たまり」に飛び込むことができる。これらの写真は不思議に隠された記憶を引き出させてくれるのだ。

 

 

14

«Один в ванной»
「お風呂で一人」

片方の子供に服を着せている間、もう一人が待っている。子供が二人の家。

一方、あまりにも懐かしく思っている人を現実に戻すところもある。もしソ連国に対して裁判を起こしたら、これらの写真を訴訟の証拠として使えたのであろう。

 

 

 

 

15
«Перекур на газовом баллоне»

ガスタンクで一服。

 


ロシアの伝統的遊び。
全体的にこのグループの写真は暗い印象を与えない。
タイムマシーンとして、だれでもが30年前に戻って、人の生活をこっそり覗いてみたりできる。

 

 

16
«Люди в очереди», Новокузнецк, 1982 год.
「列の人」

ノヴォクズネツク 1982年

 

 

 

 

 

 

 

Ксюша Такая
この写真、何が禁止されてたの?普通の写真じゃん?おかしいね。

 

 

 

Romanova Irina
でも事実はどこか真ん中あたりにあるね。

 悪くもなかったしよくもなかった。

 正常だった。何時の時代でも、「悪い」か「良い」かどっちかと評価できない。

 同じような暗い写真がアメリカにだってあったし、ヨーロッパにもあった。

 ただ「悪魔の王国」だとだれも思っていなかっただけ。それだけの差。

 

 


Ксюша Такая 
あのサボックをもう忘れちゃった。

 90年代に外国に移住して、欧米化してしまった。

 子供の頃はピオネールだったのに。

 

Sim 23

 >
Ксюша Такая 

移住してからロシアに一回も戻っていない?

  忘れたのはいいじゃないか。

  良いことだけ覚えればいい。

 

 


Ксюша Такая 

 >
Sim 23

行ったりするけど、今はもうサボックがないから。

 

 

 

Sim 23

 >
Ксюша Такая

  ないの?

  どこ消えたと思っているの?

  いや、あるよ、未だ。

  ソ連はもう消えたが、サボックは盛んだ。

 

※サボックとは、ソビエトイデオロギーまみれのこと、そういう考え方、人などの侮蔑的な呼び方

 

 


Лиель Радзиминская 
ひどい。悪夢に出てきそうなソ連の思い出。

 

 

 

Denis Tkachev

 「子供産む病院の廊下。出産のあとのケフィア」

 33年経っているのに、人を廊下に立たせる伝統は消えないね。

 

 

 

Alexander Melnichuk 
今まで見た写真の中で一番暗いかも。

 マースレニッツァもどっちかというと葬式に見える。列の人なんかも。

 

 

 

Анна

 この写真の中でゼニトで撮影できないのはどれなのでしょうか?

 

 

 

 

 

 

 

Фотографии, за которые авторов уволили с работы

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