ロシアのネット界最大のコラ素材「フリャジノの証人」とは?

白いジャージに白いスニーカー。黒い革のジャケットを羽織り、ポケットに手を突っ込み無表情、というよりも少しムスッとした表情。
一見普通の結婚式の写真だがロシアのネットコミュニティ「レプロゾリィー」にこの写真が投稿されるとロシア中に一気に拡散された。

 

結婚式の証人のこの男はロシア中を感動させ、喜ばせ、驚かせた。いつの間にか彼は写真から切り離され、ありとあらゆる写真や絵に現れた。彼は時と場所を選ばなかった。いつの時代でもどの場所でも似合う男となったのだ。

 

 

撮影された場所がフリャジノ市(モスクワから北東35kmに位置する科学都市)であることから彼は「フリャジノの証人」と呼ばれるようになる。
一説によるとフリャジノの証人はこの世界の誕生から存在し、歴史の主な出来事を目撃している。

 

 

 

というのはもちろん冗談で、最初の写真がネットに投稿されたのは2006年の6月。
この時期はちょうど「インターネット・ミーム」という用語が考え出された頃だ。
インターネット・ミームとはネット上でいきなり流行りだし、あらゆる方法で拡散され急速に広がっていく物事を指す。
2006年、ロシアではまだこの用語は知られておらず、フリャジノの証人のような現象をどう扱えばいいのか誰も知らなかった。実在の人物がこのようなことになるはロシアの歴史上はじめてだった。
『フリャジノ・インフォ』というフリャジノ市の情報を発信するサイトがある。
2006年9月、サイトのスタッフが検索サイトのフリャジノ市に関係する検索ランキングを見ていると「フリャジノの証人」という不思議な言葉を発見した。しかもこの言葉はランキング1位だった。
この時すでにロシア全国で数千人以上の人々が「フリャジノの証人」を知っていたが、フリャジノ市では若者たち以外には全く知られていなかった。

 

フリャジノ・インフォは「証人という現象」と題した記事を掲載し、「フリャジノ市民全員が証人であるというわけではない」と主張した。この記事ははじめてきちんと「フリャジノの証人」について書かれた記事だった。
「フリャジノの証人」本人はこの記事のおかげでようやく自分に何が起きているのかを理解した。本人はネット上で有名になっていることなど知らなかったのだ。

 

インターネットで「フリャジノの証人」を知った人たちはフリャジノの街中や近郊で彼を目撃するようになった。
実際に彼を見た人々は興奮した。秘密に触れるような感じだった。
しかし、「フリャジノの証人」はフリャジノ・インフォに記事が掲載されるまで自分に何が起こっているかなど知る由もなかった。
知らない人に指をさされ、こっそりと写真を撮られたり、ニコニコしながら見られたりする。ミュージシャンや俳優でもタレントでもないのに自分がなぜこんなに注目されているのかわからなかった。

 

2007年11月。フリャジノ・インフォの編集部に一人の男が現れた。「フリャジノの証人」本人だった。
寡黙な男だった彼は少し照れながら「僕の情報を全てネット上から消して下さい」と求めた。フリャジノ・インフォがこの騒動の原因だと考えていたのだ。しかし、現実はそうではなく、フリャジノ・インフォの力ではどうすることもできなかった。

 

2006年8月に公開された映画、『ハッタビッチ』には「フリャジノの証人」が登場した。本人は知っていたのであろうか?
また、MTVロシアのとある番組のタイトルバックにも使われていたのが確認されている。
「フリャジノの証人」の電話番号が漏れ、TV局のスタッフから電話がかかってくるようになった。住所も調べだされ、マスコミが彼の家に侵入しようとし警察が呼ばれたという噂も広がった。

 

 

すでに名前、住所、職場まで明らかになっていたが、一番の疑問は明らかにはならなかった。「なぜこの人なのか?」
本人もわからなかった。もちろん本人はこれを望んでいたわけではない。この人気を利用しようとも考えず、彼は今まで通り自分の職場に通い自分の仕事をし続けていた。
しかし、本人の意思は関係なくこの人気を金儲けに利用しようとする者が現れ始める。
フリャジノ・インフォには問い合わせが相次いだ。
「フリャジノの証人に会わせてくれ」「探すのを手伝ってくれ」
フリャジノ・インフォは毎回この問い合わせを断った。

 

新聞や雑誌は「フリャジノの証人」についての記事を次々と掲載した。
ゲームも誕生した。「フリャジノの証人」に様々な服を着せるきせかえゲームだ。このゲームを皮切りに様々な有名キャラクターの同じようなゲームが作られた。

 

2007年、『ロシアネットのフォークロア』という本が出版され、もちろん「フリャジノの証人」について記載された。
2007年の終わり、大統領選選挙が近づいてきた。
警察は「フリャジノの証人」に注目した。何の理由もなく有名な政治家、ビジネスマン、エリート達とのコラ画像が大量に現れ始めたからだ。安定した政治の国であるロシアになぜこのような人物が現れたのか謎だった。
「フリャジノの証人」のバックには誰がついているのか?この人気で誰が特をするのか?このブラックホースが何をやらかすのか?
選挙を目前に控えた政府は怪しいものとりあえず全てチェックしていたのであろう。何者でもない人物がTVなどを使わずいきなり大人気になるのは不思議な現象だった。

 

2008年4月、有名なジャーナリスト、アラム・ガブレリャーナフがインタビューで、「出版社”ニュースメディア”の広告の顔としてフリャジノの証人にオファーを送ったが証人は固く断りを入れた。」と語った。

 

2012年2月、アメリカのセキュリティソフト会社、シマンテックはロシア、CIS諸国を中心に広がっているAndroidに感染する新種のトロイの木馬について発表した。ポリモーフィズムの一つとしてとある写真が使われていた。シマンテック社のスタッフは誰もその写真の人物を知らなかった。ネットで検索すると”Witness from Fryazino”、「フリャジノの証人」だった。
2016年、ロシアの携帯電話会社メガフォンがサンクト・ペテルブルクに「ミーム博物館」をオープンさせた。そこでは「フリャジノの証人」の生き写しと会うことができた。多くの人は本物と勘違いしていた。
2016年5月、ベルリンのインスタレーションに彼が現れた。
実は2015年1月11日、「フリャジノの証人」は45歳でこの世を去っている。
ネットに広まった写真はムスッとした表情だがお墓の写真の彼は笑顔で微笑んでいるという。
はじめて登場して11年経った現在でも「フリャジノの証人」という言葉で検索をかける人が数多くいるということだ。ロシア人に愛された「フリャジノの証人」は今もこれからも生き続けていく。彼のことは皆永遠に忘れないであろう。