ソ連にファッションはあったのか?なかったのか?

物の少なかったソ連時代、ソ連の女性たちはどのようにファッションを楽しんでいたのか?と言った記事を紹介したいと思います。

 

以下翻訳です。

 

 

ソ連にファッションはあったのか?なかったのか?

Мода в СССР была

 

 

 

いつの時代でも女性はきれいな服を着たいものだ。我々の母たち、祖母たちの洋服タンスにはたくさんの服が入っていた。7歳の時、私は友達とファッションショーをするのが好きだった。タンスから親の服を取り出してヒールの靴を履いて、部屋をモデルのように歩いていた。特に祖母のシルクでできたクレープデシンのドレスが好きだった。

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きれいな服を着たい人はソ連の商品不足をものともせず、自分で作っていた。

店で買えた数少ないの服はみんな同じような形のものばかりだった。良いドレスを買うことができなかった。

しかしさまざまな生地(布)は売られていたのだ。ポリエステルが現れると買いたい人が長い列を作って並んでいた。1メートル30ルーブルくらい。当時にしては安くない。仕事場で、「ポリエステルを1枚買ったよ」と自慢したりしていた。

 

 

また、わりと安くシルクとウールも売っていた。

服を作るのは、ドレスメーカーに個人的にお願いしたり、専門店で作ってもらったり、簡単な服なら自分で作ったりした。

形は自分で考えたり、雑誌で探したりした。RabotnitsaとKrestiankaという雑誌が出るのを楽しみにしていた。服のコーナーが数ページがあったから。型紙もたくさん載っていた。それを見ながら想像力を使い作っていた。

 

 

コートも専門家に頼んで作ってもらっていた。

襟にミンクやホッキョクギツネの毛皮を使って作る。

編み物の服もなかなか買えなかったので、自分たちで作っていた。カーディガンに革や糸やビーズなどの飾りをつけていた。だから店の棚ががらがらでも、きれいでおしゃれな服を切ることができたのだ。

 

 

ほとんどの家族が何かを作っていた。

私の家族の中では母が編み物をしていて、私はスカートを作っていた。

生地は70~80センチくらいで10~15ルーブルくらいだった。スーツを作るのに糸が1キロ必要で、35ルーブルで買えた。

祖母がカギでレースの襟を作ったり、テーブルクロスを作ったりした。また、穴の開いたストッキングや布の小さい切れ落としなどを集めて入口あたりに置くようなカーペットを作っていた。祖母の作ったものを何枚か今でも記念として保存している。

ストッキングは買える時期と買えない時期があった。

1977年あたり、半ストッキングというものがでてきた。とても履きづらいもので、ストッキングとタイツの間くらいのものだった。暖かいタイツはなかなか買えなかった。子供用のタイツを買って特別な糸を一本だけ抜くとサイズが大きくなり履くことができた。

 

 

ソ連の学校の制服が当時のデザイナーの傑作だった。

長年経った今でも人気。

現在、学校の卒業式のためにわざわざ作ったり、知り合いに借りたりしている。

学校に入った時はミニが人気だった。高校生がドレスを短くしたりした。卒業するころは真ん中くらいの長さが人気となった。また別にピオネールの制服もあった。青いスカート。私の時代はプリーツスカートが人気だった。白いカーディガンは自分で好きなのを選べた。卒業式のダンスパーティーのためにレースのついたドレスを作ったりもした。

 

 

今の女の子と違って胸を出しっぱなしにせず、一番の飾りは若さだった。

履物のほうが難しかった。何か売り出されるとすぐに長い列ができていた。履物の質はわりとよかったがあまりきれいではなかった。フィンランドのブーツを売っていた。

そしてTseboというユーゴスラビアの会社の靴がきれいだった。

男性用はさらに難しかったが、ワイシャツはわりと良いものを手に入れることができた。もちろんスーツを着たりした。

 

 

私は当時ベラルーシに住んでいたのだが、買い物のためリトアニアまで行っていた。リトアニアには服がたくさん売られていたので、近くにないようなものを買うことができた。

ジプシーが木製のハイヒールの夏用靴を売っていた。

 

 

ソ連にファッションがなかったなんて嘘だ。物が少なかったにもかかわらず、きれいな服を着ていた。今のように色だけ違うコートを着るなんてことはなかった。

息子にあの時代に生きていた事をうらやましがられている。良いことはたくさんあったのだ。

 

 

 

 

 

 

 

AlexZ
僕の19歳の女友達に、

 「なんで女性ってこんなに服が好きなの?何を着ても僕たちは女性がきれいだと思う。

 あなたも頭がいいのにこんなに服があって、部屋を二つ持ったほうがいいほど。

 一つの部屋で暮らしてもう一つは服と靴用。」

 

 彼女はこう言った。

 「男性のために着ているのではなく、自分のためだよ。服を選んだり、

 着たりするのが好き。楽しいから。」


女性を理解するのは難しいね。

 その女性が好きでも服が別にどうでもってことだってある。
でも気づかないと怒られる。

 

владислав
どうコメントすればいいのでしょうか。

 ワイシャツの話、店に置いてあったなんてそんなこと覚えていない。

 子供の頃兄のお下がりもらってた。

 それをもともと、どこでどうやって手に入れた分からない。
学校の制服も毎年卒業シーズンにそれを着ている人たちを見るけど、

 もしそれを10年間着ていたら飽きると思う。

 僕は女の子じゃないけど、でも毎日襟を洗濯しなくちゃいけなかったし、

 エプロンがあればそれも。

 男の子の制服だって最低だった。

 ウールが入っている制服で、冬はまだいいけど、5月の25度の日は?どうだ?

 

 


владислав
母が服を作るの上手だったから驚かない。

 そういう母がいれば物不足でも関係ない。

 襟は確かに汚くなっていた。
父が言ってた、

 「人生の最高の年というのは制服を着ている間だ」

 って。
確かに、学校に通ったり、そのあと軍隊に行ったり、工場に入ったらまた制服。
でも重要なのは制服ではないんだ!中身が大事。

 制服なんて要らないと思う。子供が好きなものを着るといい。

 制服だとなんか刑務所の人みたい。あとは番号あれば完璧。

Ира

 そのタイツ覚えている。

 膝のところしわしわになっていた。しかもとても暑かった。

 5月の朝涼しくて、母にタイツ履かせられて、昼間に暑くなってひどかった。

 

 


Sveta

キルギスに住んでいた。

 仕事場で 靴とセーターを無料で配っていた。 

 帽子の中にくじをいれてひいていた。

 当たった人が質のいい靴をもらっていた。 🙂

Мария
Владиславさんと同感!

 制服はひどい。だってウールから作ってあるから暑いじゃない!

 ってことは汗をかく。ってことは臭い

 毎日洗濯しなければいけない。
因みに、エストニアの制服は全然違っていて、3年毎にデザインが変っていた。

 ジーンズのもあった!

 

 

 

 

 

 

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