先日、6月4日(土)に行われた「ソ連カルチャーカルチャー6~共産テクノとソ連戦車とおそロシ庵!」、通称ソ連カルカル6。
スピンオフを入れると7回目の今回も満員御礼でものすごく盛り上がりました。
そこで、今回おそロシ庵がプレゼンした「ソ連と体操」を紹介したいと思います。
ソ連とスポーツ
ソ連時代はどこにでもスポーツが存在していました。
どこの家にも、どこの地下室にも、どこの公園にも。
ありとあらゆる場所にスポーツが存在していました。
ほとんどの公園にはホッケーリンクがあり、冬はホッケーが、夏にはサッカーが行われていました。
そして鉄棒はどこにでもありました。
とにかくスポーツはソ連人の生活になくてはならないものでした。
その理由の1つがソ連政府によるスポーツプロパガンダです。
工場にはスポーツを呼びかけるポスターが貼られていました。
同志諸君、体操をしよう!
子どもたちはГТО(Готов к труду и обороне СССР 「ソビエトのために労働と国防に備える」 )と呼ばれる体育プログラムを受けさせられていました。
これは検定のようなもので、年齢別に各種目(100m走など)の合格ラインが定められ、合格すると記章をもらうことができました。
「鉄棒で懸垂逆上がりができないなんて男じゃない!」などと言われたりもしました。
鉄棒で漢を見せるソ連っ子
ソ連とボディビル
1973年の夏。
ソ連スポーツ委員会の会議にて激しい議論が行われました。
議論の内容はソ連の若者に人気のあるボディビルについて。
その会議では次のような結論が出ました。
「最近、ソ連のスポーツ教育とはまったく縁のない筋トレが広まっているが、それらはソ連人にとって、社会的に悪である考え方をもたらしている。
筋トレをして鏡の前でポーズをとり、自分の姿を鏡で眺めるのはソ連人に相応しくない。
これらの筋トレは重いものを使う練習ばかりの筋肉を大きくすることが目的のトレーニング。
自己満足、エゴイズム、体自慢はソ連の体育システムとかけ離れている。
ソ連の体育は集団意識、労働的活躍、政治的活躍の育成のためにあるべきだ。」
要するに、ソ連という国は使える肉体を持ったスポーツマンを望んでおり、ポーズを見せびらかすための飾りの筋肉は必要ないということなのです。
以上のような理由からソ連でボディビルは禁止されました。
禁止されていてもボディビルにハマる人はたくさんいたようで、清く正しい一般人が公園など公共の場で懸垂や腹筋などをして体を鍛えていたのに対し、ボディビルダーは見つからないよう地下室を改造したトレーニングルームにこもり、自作のバーベルなどを持ち上げて肉体を作っていました。
朝のラジオ体操
30年代、ソ連でラジオ体操が開始されました。
これは、「ソ連国民の体を元気な状態で保つ」という素晴らしいアイディアから誕生したものです。
1941年7月に戦争のため中断され、1946年8月12日再開されました。
この中断期間期外は毎朝6時、国歌のあとラジオ体操が放送されていました。
これは体にいいだけではなく、全国民が毎朝同じ時間に体操をするということで国民の一体化にも貢献しました。
「背筋を伸ばして、頭を高く!型を少し後ろに引っ張って、息を吸って、その場で歩く!い~ち、に~…」
子供から大人までみんなこの朝のラジオ体操を聞いていました。
聞きながら出勤の準備をしたり、学校や幼稚園に行く準備をしたりしたのです。
ラジオ体操を指揮していたのは体育中央研究所の教員であるゴルデェフ・ニコライ氏。彼は声で体の動き方を適切に伝えることができる能力を持った素晴らしい専門家でした。
彼と一緒に体操を考えていたのはディヤコワ・ガリーナ氏。
そしてピアノの演奏はローディン・ヴァレンチーン。芸名はロディオーノフ。
ロディオーノフの演奏は素晴らしく、ラジオ体操を聞いているファンからの手紙もたくさん届いた。その中には、「ロディオーノフの演奏が素晴らしすぎるので体操をやめて音楽だけ聞いています。」と書かれていたりもしました。
ゴルデエフの声とロディオーノフのピアノ
朝のラジオ体操
生産体操「元気の5分間」
朝のラジオ体操だけではなく、職場でもラジオ体操がありました。
仕事での体操はソ連の多くの物事と同じように、自由意志で強制的。搾乳係から工場労働者まで、ラジオを聞きながら走らされたり、スクワットをさせられたりしました。
この職場での体操のことを「生産体操」と呼び、体操の時間を「元気の5分間」と呼んでいました。
「元気の五分間」のおかげで人々は元気になり強くなっていき、不良品の減少にもつながったと言われています。
上司も含め全員が決まった時間に席を立ち体操する生産体操、現在ではソ連映画などでしか見ることができません。
1956年に「仕事での体操について」といった法律ができました。
これにより、建前上「自由意志」だった仕事場での体操が「強制的」になりました。
この法律はスターリンの発言、「敵から母国を守れる労働者の世代を育てなくては。」を踏まえる事にもなります。
法律が制定されると医者が呼ばれ、各職場で体操を行っても問題がないかなどのチェックが行われました。
換気や空気の清浄さなどがチェックされ、体操方法が確定されました。
そしてお昼前か仕事終わりに体操が行われ、体操時にはインストラクターが指導にあたりました。
しかし、上から降りてきたルールを各現場の責任者たちは勝手に変更しました。
例えばラジオ技術研究所では次のようなひみつマニュアルが存在しました。
「モールディングが落下しないよう、”その場ジョギング”は足を使わないで行うこと。」
一応説明しておきますと、”その場ジョギング”とは足踏みでジョギングを行うことです。
ソ連のエアロビクス「リトミック」
リトミックが初めてTV放送されたのは1984年。
これは大失敗でした。ソ連人には早すぎました。
あまりにも革命的すぎてソ連人にはついていけなかったのです。
これには、50年続いていたラジオ体操に国民が満足していたという背景があります。また、「欧米の真似だ」とお年寄りからの批判もありました。
番組が中止となりしばらくした後、番組関係者がアメリカの有名女優、ジェーン・フォンダによるエアロビクスのテープを発見しました。
これを見た番組関係者は自分たちもほぼ同じものを放送していたと気づき、今度はターゲットを女性に変えたリトミックの番組を復活させました。
この復活したリトミックは大ヒットしました。
美女たちがリズミカルな音楽に合わせて動き、彼女たちが着用していたリトミック用の水着、ネオン色のスパッツとゲートルの需要が急増しました。
ゲートルはリトミック時だけではなく、いつでもどこでも着用される大ヒット商品となりました。
復活したリトミック
リトミックは1984年から1991年までTV放送され、全部で12種類のリトミックが作られました。
それぞれ司会者が違い、司会をしていたのはプロのフィギュアスケーター、バレリーナ、体操選手などです。
中にはオリンピックの金メダリストなどがおり、ソ連スポーツ界のプロ中のプロが司会のために集められました。
使用されていたのはテクノ系の音楽、いわゆる共産テクノの1つです。
MELODIYAが1984年に「リトミック体操」というレコードを出しました。
さらに、リトミックブームに乗ったDispleyというバンドが「運動の喜び」という曲をつくりました。
Displey「運動の喜び」
このビデオ、見ているととてもダサいんですがなぜかハマります。
そしていろいろとツッコミどころが…
まず前奏から歌い始めるシーン。
前奏。
ガラスの後ろで女の人達が体操をしてるのですが…
お前が歌うのかよ!!!!
と、ガラスにちらちら写り込んでたおっさんがいきなり歌い出します。
次、1:26辺りから。
このビデオはなぜか「巻き戻し」が2回使われておりそのうちの一回目。
ウィンドサーフィンのボードに…
なぜか…
逆再生で女の人が乗り込む。(実際は落ちてる)
そして二回目の巻き戻し。
1:43辺り。
弁当を食ってるおっさん
なぜか…
逆再生され…
食ったものを吐き出させられる。
なんでこんなシーンを作ったのか謎すぎる。
でもずっと見てるとなぜかハマってしまう不思議な魅力あふれるビデオです。