ソ連時代の雑誌に掲載されたウクライナの”美しい”写真

ソ連時代の雑誌、「Ogonyok」(輝き)に掲載されていた、1950~61年のウクライナの写真を紹介した記事です。

写真のほとんどがプロパガンダ的な美しく修正された写真だそうです。


それでは以下翻訳です。





Красные аватары Украины: фото из журнала «Огонек»

ウクライナの赤い写真雑誌Ogonyokより



アメリカの雑誌、「Life」のように、ソ連の雑誌、「Ogonyok」は暮らしの写真の「百科事典」だった。

それらの雑誌の写真は単に記事の説明画、挿絵ではなく、その時代の挿絵であると言ってもいい。


ウクライナのブローガーjoanerges がOgonyokのホームページのデータベースからスターリンの終わりの頃の写真を引っ張ってきた(http://www.kommersant.ru/ogoniok/)。

これが修正され直された、美しきウクライナである。

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1. 1950年、キエフ。スターリン広場(現ヨーロッパ広場)

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2. 1950年、フレシチャーティクの修理。優れた石工Fyodor Ivanovich Kravchuk

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3. 1952年。おはよう!(ザカルパッチャ州)

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4. 1952年。高校生の観光客。クリミアにて。

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5. 1952年。「クリミアのバラ」工場の一番優れた収穫者が赤いバラの花びらを集めている。

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6. 1952年、キエフを流れるドニエプル川

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7. 1954年、キエフ。カリーニン広場(現独立広場)
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8. 1954年、キエフ。クラスノアルメイスカヤ通り(現在ヴォルシャヤ・ヴァシルコフスカヤ)

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9. ハリコフ市。ジェルジンスキー広場(現自由広場) 

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10. 1954年、スタリノ。(現ドネツク市)

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11. 1954年、ウージュホロド大学にモスクワ大学から物理学部のために機械類や道具が届いた。三人の学生と実験室技師が箱から取り出している。

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12. 1954年、ザカルパッチャの鉱山にて。塩を運んでいる。

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13. 1954年、リヴィウ農業機械工場が畜産農場のために機械を作っている。農場に送る前の最後のチェック。

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14. 1954年、スターリン名称ノヴォクラマトルスク機械製作工場。日用品作業場。模様付け工のカーチャ・ロジキナ。

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15. 1954年、日用品の積んである船、「カール・マルクス」。オデッサ。

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16. 1954年、フォークリフトの運転手、ガーリャ・ボリャクが急いでいる。「ポベーダ」観光客船から期限より早く荷降ろしすると約束をしたから。

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17. 1954年、「ユジノサハリンスク」が食料品を積み、南サハリンへ向かう。船長の第三助手ウラジミールが航海計器をチェックしている。

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18. 1954年、コムソモールの名誉賞状をもらった港の電気技師が機械をチェックしている。オデッサ。

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19. 1954年、オデッサ。倉庫の働き手、ディーナ・タランが荷物をチェック。

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20. 1954年、キエフ畜産科学的研究実験基地「テレジノ」にて。

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21. 1954年、広告。

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22. 1954年、ジダノフ(現マリウポリ)。「Avtostal`」工場の港。工場の溶鉱炉用集塊岩の荷降ろし。

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23. 1956年、溶鉱炉用ガス管鍛接。モロトフ名称ドネプロペトロフスク工場。

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24. 1956年、ウクライナの画家、アントン・カッシァイと二人の息子、アントンとステパン。

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25. 1956年、出張証明書でドネツク石炭工区に来た、もと船乗りのデメチェンコとタランユク。

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26. 1956年、リヴィウのイワン・フランコ文学記念館。

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27. 1956年、作家の息子と孫がキエフに住んでいる。息子、タラス・フランコは文学研究所の研究員。孫のジナイダは言語学研究所の研究員。イワン・フランコの文学遺産を研究している。

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28. 1956年、リヴィウ、シェフチェンコ通り。

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29. 1959年、ヴァーリャ・ヴェルバはキエフの精度機械工場の優秀な働き手の一人。

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30. 1959年、表紙

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31. 1959年、「キエフについて一言」

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32. 1959年、フレシチャーティクにて。

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33. 1959年、フメリニツキー広場。

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34. 1959年、スターリン広場。

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35. 1959年、アルセナル工場附属幼稚園。

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36. 1959年、ツムの向かい側にあるカフェ。

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37. 1959年、裏表紙。

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38. 1959年、スタリノ(現ドネツク市)

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39. 1959年、Avtostal`工場の優秀な製鋼工のマザロフ(写真右)と彼の助手、ニコライ。

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40. 1959年、Avtostal`工場。

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41. 1959年、ドネツク石炭工区の鉱山村。

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42. 1959年、ルガンスク。技術の家のそば。

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43. 1959年、スタリノ市の本市場。

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44. 1959年、スビャトゴロスクの観光客。

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45. 1961年、ソフホーズ、タヴリヤ(ヘルソン州)

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46. 1961年、カホフ水力発電所の水門。

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47. 1961年、ザポリージャ変圧器研究所の高圧研究室。

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48. 1961年、ザポリージャのレーニン大通り。

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mrKorolko

 ソ連時代の雰囲気、もう帰ってこないなあ。残念。




IronHedgehog

 とてもきれい。

 第二次世界大戦から4年しか経っていないのに、今のキエフよりずっときれい。

 今はポスター、ビラ、広告看板ばっかり・・




fregad

 >
IronHedgehog

  よけいなことを言うな。フレシャチク通りきれいだよ。

  町って人間と同じように、生きている間、大きくなって変化していく。




Rocco

 2枚目の優れた石工が手に優れたバターの塊を持っている。




xsoft

 写真を見ているとこの時代の落ち着きを感じるね。




gaz100rozh

 
これが修正され直された、美しきウクライナである。

  修正って単語は余計だよ。




mariush

 >
修正って単語は余計だよ。

  いや、プロパガンダはプロパガンダだ。

  写真家が来る前にコルホーズでトラクターに新しくペンキ塗ったり、

  学校もペンキを塗ったり、農家に笑うように命令したりして。

  北朝鮮みたい。




Ньютона

 なんてきれい!

 みんな楽しく暮らしてただろうな。

 EUもなかったし、一体化していた。
 ウクライナ・・

 いつかハリコフからリヴィウまで、全国を旅したい。




seroff

 25枚目の人が持っているのはスマホって一瞬勘違いした。




ОБХСС

 とても暖かい雰囲気。人の顔生き生きしている。

 風景のところはなんか子供のころに見た絵のよう。

 言葉にできない.




cathares

 11枚目、本当にウクライナ??




Иванка

 フレシチャーティク・・

 一時的な元首が一時的にきれいにしたり、

 一時的なバカ元首が古いものを壊して新しいの作ったり・・

 でもフレシチャーティクが変わったり、新しくなったり何か得たり何か失ったりして存在し続けていく・・

 だからいつも興味深い所である。




heckfy

 25枚目、もと船乗りのデメチェンコとタランユク
が新しいiPhoneをいじっている。 :)

 子供のころからソ連の昔の雑誌を見るの好きだった。

 なんか暖かさ感じたな。




lionheart51

 この頃のソ連って最高!




skvor

 こんなにポジティブな人間ってもう二度とどこにも現れない・・

 残念ながら 。




ПурумСтарший

 5枚目、バラの花びらををクローブから集めてるね。








Красные аватары Украины: фото из журнала «Огонек»

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