子供を平日24時間幼稚園に預ける制度、ソ連時代のピャティドネフカについて紹介します!

ソビエト時代、両親が仕事で忙しい子供のためにピャティドネフカという制度があったそうです。

пятидневка(ピャティドネフカ)、пять(5)とдень(日)からできているこの言葉からわかるように、
月曜から金曜まで幼稚園で子どもたちを寝泊まりさせる制度です。

その幼稚園によるのかもしれませんが当時そこで過ごしていた子どもたちにとってあまりいい思い出ではなかったようです。

そんなピャティドネフカについての記事を紹介します。


以下翻訳です。





Я не хочу на пятидневку

ピャティドネフカに行きたくない



「機械技師の愛しい女性」という映画の主人公の娘が「私にはベビーシッターがいなかった。ピャティドネフカで育てられた。」と言っている。

私も子供の頃、ピャティドネフカで育てられてた。今はもう全く残っていないが、60年代~70年代には国のどこの幼稚園にも24時間クラスがあった。共産主義を創る人たちの子供が幼稚園で月曜日の朝から金曜日の夜までの5日間を過ごしていた。家に帰っていたのは土日だけで、両親にお風呂に入れてもらったり、美味しいものを食べさせてもらったり、アニメーションを見に映画館へ連れて行ってもらったり、散歩したり、たまにアイスを買ってもらったりした。

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60~70年代、両親は朝早くから夜遅くまで働いていて、夜間に働くこともよくあった。しかもお父さん達だけではなく、お母さん達もそうだった。もしその家族におばあちゃん、おじいちゃんがいなくて、子供を預けることができなければこのようなクラスに子供を入れていたわけだ。


午後7時過ぎには運の良い子供には両親が迎えに来ていた。残った子供達には昔話を読んだり、アニメーションを見せたり、遊ばせたりして9時に消灯。家に帰る子供がすごく羨ましかった。両親にすごく会いたかった。隣のベッドの友達とマッチを見つけて幼稚園を燃やしてしまおうという夢があった。

ある日、その友達が玄関のドアの後ろに隠れて、見つからなかった。夜中、外に出て行ったのだ。まっすぐに家に帰った。でも両親は夜勤でおばあちゃんも親戚のところへ行っていた。家には誰もいなかったからその子は外をぶらぶらしてた。

幼稚園では大騒ぎになった。警察を呼んだ。警察が他の子供にいろいろ質問をしていた。結局、一人でぶらぶらしている子供を見かけた町の人が警察に連絡したようで、彼は幼稚園に連れ戻された。他の子供に、「逃げたらこんな大変なことになるんだぞ!」と先生達は話した。この事件は長い間忘れられずに、この事件についてあれこれ言って子供を脅していた。


私と弟も24時間クラスに入っていた。父は運転手で出張も多かった。母はコックで朝7時から仕事だった。おばあさんおじいさんは遠くに住んでいた。ある日、二人のいとこが私と弟を連れて帰ることになった。その一人が14歳だったから許可が降りた。家に向かい歩いている間、私達は世界一幸せな子供だった。でも家へ帰ると父は出張でいなく、母は次の日朝早くから仕事だって分かった。


いとこたちは勝手なことするなと怒られた。そして私と弟は翌朝5時半起こされ、6時に幼稚園に着いた。まだ真っ暗で雨で寒かった。弟と大泣きして幼稚園に入りたくないと言ったが、だれも聞き入れてくれなかった。


だから「冬のさくらんぼ」という映画の主人公の息子が泣きながら、「ピャティドネフカに行きたくない。」と言っているのがよく分かる。





wowek

 大変だ。

 俺はこういうクラスがあるってことはやっぱり映画を見て知ったんだけど、

 そのときはもう1年生だった。こんなのがあるなんてショックだった。

 自分の両親が忙しかったのに、毎日家に連れて帰ってくれた事はすごく感謝している。




владислав

 そうだね・・

 国の思いやりだね・・・

 自分に対しての思いやりだけど!

 家族は社会の細胞だと言われてた。だけど矛盾じゃない?

 子供が生まれたらその細胞の役割が果たされたってことでまたたくさん働けって?

 「兵士は考えるべからず。上司が考えるから。」って感じ?




Галина

 週末にちゃんと帰ってたじゃん。

 私なんか夏の間、3ヶ月間ずっと幼稚園の郊外の家で過ごしてた。

 12週間両親と会わない。

 しかも私のクラスの先生はヒトラーに育てられてたような人だった。

 私は両親もいるしおばあさんおじいさんも二人ずついるが、

 孤児院というのはどういうものかよく知っている。

 毎年の夏をそういう孤児院ですごさなければいけなかった。

 「子供の健康を大事にしている。」っていう言い方だったが、

 その12週間、子供は家に帰りたいとずっと泣いていた。でも誰も同情してくれなかった。

 先生に、「両親の一番大事な役割は働くことであって我々子供は邪魔するだけだ。」

 って言われてた。それを聞いて、生まれたこと自体恥ずかしく感じるようになってた。

 私は夏の間だけだったけど、ずっとピャティドネフカに残る子供って、

 一年中「余分な人間」コンプレックスだったかもね。




Петрович

 家の幼稚園(普通の幼稚園だったが)の先生たちも

 何か人生に不満を感じている人ばかりだった。




Галина

 私は大学の専攻が化学だけど、一時期自分の息子の幼稚園で先生をやってた。

 でも、子供が120人いるからみんなのお母さんを雇うわけにもいかないね。




Лана

 おじいさんおばあさんのいない若い家族の選択肢に、「子供を産まないこと。」がある。

 子供を預かってくれる人いないし、夫の給料だけじゃ生きていけないから。




Bobas

 僕は幼稚園に行っていなかった。

 一人で外をぶらぶらしてた。

 近くの幼稚園の柵の近くまで行って、楽しそうに遊んでいる子供を見て羨ましかった。

 後から分かったけど、柵の向こう側の子供も僕のことを羨ましく思ってたって。




кана

 私は幼稚園に行っていない。

 母は私に注射をさせたくなかったらしいから。

 なぜかというと、姉がすごく珍しい注射アレルギーだったから、

 私もそうじゃないかなって心配してた。

 だから3歳頃から一人で家にいて窓を見てた。

 自分の娘は4、5歳から幼稚園へ入れることになった。息子が生まれたから。

 一週間後、うちに帰りたくないと言われて、娘をピャティドネフカに残すことになった。

 今、彼女は24歳だけど、ピャティドネフカの2年間が一番楽しかったって言っている。

 まあ、幼稚園にはおもちゃ、アニメのカセットテープなどいろんなものを持って行ったけどね。

 彼女の話を聞いて息子も幼稚園に入りたいと言って、彼も2年間毎週泊まってた。


 夏の幼稚園のキャンプもよかったって。(3週間だけだけど)

 だから多分、教師たちによるんじゃないかな。




Гриб

 俺はピャティドネフカに行かなくてよかった。

 あと、「プロドリョンカ」もあったね。

 人生に不満を感じている教師たちが子供を調教してた。

 そう、教育してたのではない。調教。


※プロドリョンカ:幼稚園や小学校で子供が夜遅くまで残る制度。両親が忙しくて昼間迎えにこれないという子供のため。




Анна

 私も1992年にピャティドネフカへ行ってた。すごく家に帰りたかった。

 でも仕方なかった。母は仕事が6時半からで、幼稚園も町の反対側だったから・・

 その幼稚園は特別で、皮膚に病気のある子供用だった。

 母は寝るときに私のシャツとかドレスを抱いて寝てたってさ・・




Анатолий

 私の両親は幼稚園が閉まってて預かってくれる人いなかったら、職場に連れて行ってた。

 そこには私と遊んでくれる人がいくらでもいた。

 おかげで7歳の時点で周りの畑と牧場も全部まわったし、電話局の仕組みも分かっていた。

 大人になってから全然使わなかった知識だけどね。




Наташа

 私もピャティドネフカに預けられてた。

 数ヶ月間だけだったが、未だ立ち直っていない。

 給料の半分を心理学者と薬に使っている。

 両親とはずっと連絡取っていないし。







Я не хочу на пятидневку

20th.su/2012/08/31/ya-ne-xochu-na-pyatidnevku/