ロシア人「1961年のモスクワを見てみよう」

前回の50年代後半の日本の記事引き続きアメリカ人Herb Gouldonさんの写真です

今回は1961年のモスクワについての記事です


以下翻訳です



Москва, 1961 год

1961モスクワ



19615月アメリカ人のHerb Gouldon家族を連れてモスクワへやってきてとても良い写真を取りました 


彼はビジネスマンであり日本ドイツイギリス香港いろいろな国へ旅行をした

第二次世界大戦の時彼はパイロットだった。2006年に82歳で亡くなった


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私の故郷の写真。女性は私の実家の目の前にいる

当時はPloshad Vosstaniya「蜂起広場」 。

私は1961年には生まれていないが兄は見たかもしれない。

覚えていないと言っているけれども。


※Ploshad Vosstaniya : 現在はKudrinskaya Ploshad「クドリンスカヤ広場」。





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同じく懐かしい場所

馬の右側に見えるのはフルシチョフが住んでいた建物

その建物の中に彼はアパートを2部屋所有しており両方の窓からこの像見ることができた

そしてその右側はソ連時代レストランAragviだった

とても美味しかった。私の家族はいつもここで誕生日を祝っていた

しかし今はもうダメになってしまった。普通の食堂になった


フルシチョフ:Wikipediaより

ニキータ・セルゲーエヴィチ・フルシチョフ(ロシア語: Никита Сергеевич Хрущёв(ニキータ・スィルギェーイェヴィチュ・フルシショーフ), ラテン文字表記の例:Nikita Sergeyevich Khrushchev, ウクライナ語: Микита Сергійович Хрущов(ムィクィータ・セルヒーヨヴィチュ・フルシュチョーウ),1894年4月17日 – 1971年9月11日)は、ソビエト連邦の政治家、同国の第4代最高指導者。ソビエト連邦共産党中央委員会第一書記と閣僚会議議長(首相)を兼務した。ウクライナ系ソビエト人。

ヨシフ・スターリンの死後、スターリン批判によってその独裁と恐怖政治を世界に暴露し、非スターリン化に基づく、自由化の諸潮流をもたらした。対外的には、アメリカ合衆国を中心とする西側陣営と平和共存を図り、核実験を抑制しようとした。一方で中華人民共和国およびアルバニアと激しく対立し、またハンガリー動乱に際し軍事介入を行うなど社会主義国同士の紛争が目立った。





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彼女たちの後ろに見えるのは”Hotel National”。

昔、青いバスの見える所には入り口があり、レストランとホテル用の食品が運べるようになっていた。

歩道のすぐそばにはゴミ箱があり、腐ったキャベツは臭く、その場所からは白っぽい「川」が流れ出していた。

そこで私と友人のLyudaは二人で真昼なのにもかかわらず小便をしていた。

なぜならばすごくトイレへ行きたいがトイレは遠いからだ。

通行人たちは私たちの小便を全く気にすることはなかった。









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このように飾られたボリショイ劇場は見たことがない。

60年代の初め、私の夫の親戚はボリショイ劇場で舞台装置の担当だった。当時の有名な女優、Vishnevskayaが出演していた。ある日彼女はその舞台装置担当者の仕事が気に入らなく、皆の前で叱りつけた。彼は顔には出さなかったが消して忘れることがなかった。後日復讐したのだ。徴兵される前、彼は芝居のセットをわざとエロく作った。本来ならば舞台の後ろにはおもちゃが置いてあるはずだったが、彼は人形に膝をつかせ熊のぬいぐるみを人形の後ろにくっつけて立たせた。

観客は皆笑った。Vishnevskayaも笑っていたが。





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再びPloshad Vosstaniya「蜂起広場」!!

現代に合わせて修理されていない建物が懐かしい。

左側の黄色い建物は昔、脳の研究をしている研究所職員が住んでいたアパートだった。この研究所はクルプスキーおじいちゃんの脳梅毒の研究をするために作られた。脳を切ったのもここのすぐ隣だ。

私は道をわたってこの建物に音楽を習いに通っていた。音楽学校はプラネタリウムのすぐ後ろにあった。


※クルプスキーおじいちゃん:おそらくナデジダ・クルプスカヤ(レーニンの妻)の父のこと。間違えてたらすみません。





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屋根で銃とハムを持っているフョードルお父さんは何者だろうか?

どうやってそこへ上がったのか?何を食べるのか?

KGBの4番局職員かもしれない。

アメリカからのお客さんの安全を守っている。

高いところにいるのはすべてを観察できるからなんだ。





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これはルジニキ・スタジアム。

母は建設に参加していた。

建設に携わった学生団体は2年間ここで働いた。


ルジニキ・スタジアム:Wikipediaより

ロシア最大の多目的競技場で、収容人数は78,360人。オリンピック開催時には最大で103,000人を収容。施設はルジニキ・オリンピック・コンプレックスの一部である。
1957年のアイスホッケー世界選手権決勝では当時のアイスホッケー史上最多の55,00
0人を動員。この記録は2001年10月のNCAAアイスホッケー(ミシガンVSミシガン州立、ミシガン・スタジアム)に破られる。
1980年のモスクワオリンピックではメイン会場として使用された。五輪では開閉会式、陸上競技、サッカー決勝、馬術(大賞典障害飛越)が行われた。
1982年10月22日、UEFAカップのスパルタク・モスクワVSHFCハールレム試合中、将棋倒しに巻き込まれ66人が死亡する大惨事(ルジニキの惨事)となった。
1989年12月31日には新日本プロレスの大会(大車輪キックinロシア)が開催。
現在はサッカーの試合で使用される事が多く、ロシア代表の試合や欧州カップ戦などの国際試合の他、ロシアサッカー・プレミアリーグに所属するFCスパルタク・モスクワとPFC CSKAモスクワのホームスタジアムとしても使用されている





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プール”モスクワ”





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Москва, 1961 год

oko-planet.su/fail/failphoto/146944-moskva-1961-god.html





建物はそこまで変化はない感じ観光地的な場所が多いからかな

10のルジニキは今はある屋根がないな。

14、15、17のモスクワ大学は現在と同じ。中も多分この頃から現在まで殆ど変わってないんだろうなあ。

あとは全体的に優しい雰囲気が漂ってる現在のモスクワはちょっと緊張した感じ



Back in USSR Back in USSR
Vytenis Rozukas

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